祈りのうちに

夫の突然の脳腫瘍、物語を書きかえながら、すべてを受け入れる
日々をつづりたいと思います

待降節2週目〜希望

日曜日から待降節2週目になりました。

2週目は『希望』のキャンドルの

ともしびがゆれます。


日曜日の夕方

いつも大学病院に入院時

病床訪問してくださる神父様が

いらしてくださいました。


夫の心が入信に向いているので

クリスマスの受洗も考えているのですが

夫は神父様に

身体が不自由で1人で教会には行かれないし

目も半盲のため、本も聖書も読めないし

また、病気のせいで理解も不安

こんな自分が受洗していいのか

悲しそうに神父様に聞いていました。


神父様は、一言

自分をイエス・キリストに委ねます

という心があればそれでいいと

お答えになりました。


特に夫には

私や子供たちがそばで

信仰的な環境を持っているから

聖書にあるように

家庭が聖なるものになっている

信仰宣言をする日は

きっと神様がご計画されている

その日を私は早く待ち望んでいますが

祈りのうちに待たなければ


時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない

(エフェソ1-10)


神父様は、それから小さなボトルを

私たちの前に置かれて

「これを渡しておきます」と

言われました。

それは神父様が洗礼を授ける時に使う

聖水でした。

急いで洗礼を望む時には

私や子供たちから受けるようにと。


カトリックの教え(カテキズム)の中には

緊急な場合、信徒あるいは信者ではない人でも

洗礼を授けることが可能と記されています。

神父様は、夫の病気を伝えた時から

それでも良いと私たちに 言ってくださって

いました。


信者の中には、最初から未信者の家族を

最期に受洗すればいいと考える方も

いらっしゃいます。

確かに、カトリックではこれ以外にも

『望みの洗礼』と言われるものもあり

これは、洗礼を望みながら受ける機会なく

この世を去った人が

その望みにおいて洗礼を受けていると

されるものです。


信者は「天国どろぼう」という

言葉を使うこともありますが

このような救いの道はあるけれど

本当は、夫が自ら生きている証の中で

新しい人になり、いただける秘跡を

授かる恵みを私は望みます。


病者の塗油を受け

罪を告白し、ゆるしの秘跡を受け

たとえ短い時間になったとしても

生まれ変わった新しい人として生きる時間を

過ごしてほしいと思っています。


でも、神父様からは

この大切な聖水の小さなボトルを

震えそうな手で受け取りました。

これを使う日がいつか来るのかと考えると

すごくこわい。


夫は今日無事に大学病院を退院し、

午後には元の療養病院に帰って

疲れたようで夕食まで

眠っていました。


今日も祈りのうちに