祈りのうちに

夫の突然の脳腫瘍、物語を書きかえながら、すべてを受け入れる
日々をつづりたいと思います

緩和ケア病棟にて(父の記録)

膵臓がんの父の記録


9月6日に父は緩和ケア病棟に転棟しました。

ひとつ上の階に移動しただけですが

緩和ケア病棟は、病棟全体が温かみのある

まるで家のような雰囲気です。

ナースステーションには熱帯魚の水槽があり

病室の窓には障子がついています。


担当ナースが決まっていて

もちろん休みの日は別のナースがお世話して

くれますが、とにかくみなさんあたたかく

優しいです。


父はもうほぼ食事はとれなくて

足には力が入りません。

それでも自力でトイレに行こうとするので

その都度コールしてください、支えますと

言われています。


体重は50キロをすでにきっていますが

身体が大きくて、もともと183センチの身長なので

介助も大変なのですが

スタッフはいつも笑顔で介助に来てくれます。


震える文字で、レスキュー薬の服用時間をメモしています。

私は手をアロマオイルでさすり、

お茶にはそーっとルルドのお水を

数滴入れました。


ブドウを2粒ほど口にしますが

飲み込むことはできずに、水分を含むだけで

ティッシュに実の残った皮を出します。


広島カープの応援も、もうできません。

土曜日には2人体制でトイレ介助できるように

少し広めの特別室に転床しました。


土曜日は、母も姪っ子も面会に行き

3時間くらい過ごしました。

病棟のリビングでは家族も自由にお茶できます。

妹とコーヒーブレイクもしました。


私たちは父を囲んで写真を撮りました。

痩せて病人となった顔では悲しいかと思いきや

写った画像を見たら、何枚も全て

とてもいい笑顔の父でした。


妹が父から頼まれていた本を届け

父は手に取り少しページをめくりましたが

「残念だけどもう読めないな」といいました。

新聞だけは少しだけ見ていました。


日曜日、長女と病室を訪れると

父は、口呼吸で眠っていました。

呼んでも呼んでも起きません。

ナースに聞くと、朝からこんな風と言っていました。

それでもトイレにだけは、支えられながらも

行っています。

今日はもう新聞も読めません。

すこし部屋を出て戻ると、起きたので

急ぎ、遠くにいる父の妹に電話し、

話をさせてあげました。

そのあと、今度は家にいる母に電話をし

母が知り合って63年たったといったら

「163年、幸せだった」と父が言いました。


電話を私にかわったので、母には

100年プラスされるほど幸せだったんだねと

言いました。

母は嬉しそうでした。

きっと泣いていたけれど

幸せだったと言ってもらえて、母は本当に

幸せな人だと、私も涙をこらえるのが精一杯でした。


こんな風なターミナルケアでいいのかな

私、ちゃんとできてる?

お父さん


父の手をさすり、握手してみると

まだまだ力強い

さいごの会話になるかもしれない

さいごのアイコンタクトになるかもしれない

そう思いながら、病室を後にするのでした。


今週から、仕事を半日にしたりしながら

母を毎日会わせてあげようと思います。


今までは1時間から2時間おきくらいのペースだった

レスキュー薬のオキノームが

今日は3時間くらいあいていました。

木曜日から徐放性の定時のオキシコンチンが30mgに

増量されたからなのか

身体が弱り、予防的な要求ができなくなったのか

どうなのでしょうか。


死を恐れているような感じも

だんだんしなくなっています。


人はさいごにはこのようにきちんと死を

受け入れていくのでしょうか。

健常者の私にはわかりません。


今日も祈りのうちに