祈りのうちに

夫の突然の脳腫瘍、物語を書きかえながら、すべてを受け入れる
日々をつづりたいと思います

物語の続き

7日に夫は十字架のついた白い箱で
ようやく家に帰ってきました。
7月5日に大学病院へ入院してから
約1ヵ月ぶりのことでした。
自分でセットしていた木でできた
ブロックの日めくりカレンダーは
7月5日のままです。


いつもいた部屋のベッドのあった場所に
静かに居ます。
写真はずいぶん昔の上高地で穂高連峰をバックに
写したもの
元気で一番活動的だった頃の
ステキな写真です。


2つ持っていたロザリオのひとつは
手に組んで一緒に行ってしまったので
もうひとつのロザリオが
白い箱にかかっています。


いただいたお花が
白百合と私の好きな濃い紫のトルコキキョウ
いつまでもいつまでも
お部屋で眺めていました、夫を。


夫と結婚して6月で30年でした。
そのうちの6分の1を闘病生活で
過ごしたことになります。


さて、物語の続きを記録しているのは
同じ病気で現在闘病されている方がもし
このブログに出会った時のことを考えてのことです。
私は、夫はさいごにどのようにして
お別れするのかすごく不安でした。
そんな時に、同じ病気のことを書かれていた
ブロガーさんに思い切ってメッセージをしてみたら
ご主人様のさいごのときのことを
お辛い体験にもかかわらず教えてくださり
不安が和らぎました。
そのこともあり、少しでもどなたかの参考になれば
、、、そう思っています。


3日の夜遅くにホスピスを出発した夫は
いったん夜中は葬儀屋さんにお泊まりになり
翌朝、教会の信徒ホールにある6畳ほどの
和室に安置していただきました。
家に帰そうか、迷いましたが
コロナ禍の今、ご近所のこともあり
そうすることが一番さしさわりがないとの
家族で決めた判断でした。


教会の和室は子供達が小さな頃に
教会学校でミサの後に毎週集まった場所
隣の大きめのお部屋と続き間になっていて
両方のお部屋で活動していました。
アルバムも置いてあり
懐かしい小さかった子供達がそこにいました。
あの頃、夫がさいごにここで過ごすことを
誰が考えたでしょうか。
神様のはからいは本当にすごい
この思い出のあるお部屋で夫は
3泊もしました。
火葬場の予約の関係です。
心配でしたが、そこは教会に慣れている
葬儀屋さんだったこともあり
司祭とも手際良く打ち合わせしながら
とてもきれいな良い状態で
十字架の刺繍と羽の地模様のついた白い布のかかった
棺の中で、微笑みながら眠っていました。
幸せそうでした。


毎日、3日も会いに行くことができ
私はたくさん夫に話ができました。


金曜日、翌日の葬儀を控えて
聖歌や司会をお願いしている修道院に
挨拶に行き、その帰りにホスピスへ
入院費支払いに行ったのですが
偶然にも入り口で、ホスピスの担当医の
先生に会えて、少し話ができました。
その時に先生から、早かったね
脳ヘルニアだったね、と言われ
どういう症状のことなのか聞くと
腫瘍が大きくなってきて
呼吸中枢を侵略したため
意識障害と呼吸が停止したとの説明でした。
脳腫瘍としては、言い方は悪いけれど
とても良い亡くなり方です
もっと辛い症状の方もいます、と言われ
夫は前日まで、帰りに手を振ってくれたし
私の見る限りでは、痙攣発作もなかったです
と言うと、先生は優しく微笑み
これからだよ!新しい人生
楽しまなくちゃ!と励ましてくださり
お父さんがもうおいでって言ったんだね
お父さんによろしく言っといて、と
父のこともよく覚えているので
そんなふうに元気づけて、行きました。


私は一度も、痙攣したり嘔吐したり
頭痛で苦しむ夫を見ていません。
さいごの時の呼吸は早かったけれど
穏やかに眠りについたのだと思います。
私たちが手を握り、呼びかけて
きっとそのことを感じながら
マリア様と一緒に天国への道に
歩いて行ったのだと思います。


本当に脳腫瘍をほったらがしに
好きに大きくしていけば
変な言い方ですが、治療で抑えられないって
つまりはそういうことですよね
いったいどんなふうに
夫の生身を脅かしていくのだろうと
想像もつかなくて、とても不安でした。
夫の場合というのかもしれませんが
他の機能をいじわるな悪い形で
悲惨な攻めを受ける前に
意識や呼吸に攻め込まれて
あっという間のことでしたが
残された者への心の傷は
このように記録をできるくらいで
すんだのかもしれません。


悪性脳腫瘍、膠芽腫G4
この病気との出会いで、人生という物語を
書きかえることになった
受容できるまで、すごく大変でした。
夫も、私も


この続きは、また記録していきたいと
思います。


全ての同じ病気、または治らないと言われている
病気との人生を送っている方に
この心を捧げたいと思います。


感謝と祈りのうちに