祈りのうちに

夫の突然の脳腫瘍、物語を書きかえながら、すべてを受け入れる
日々をつづりたいと思います

もしも・・・

夫を見ていると
60代前半で自由のきかない生活は
かなりストレスなのだろうと思う
術後からもうすぐ3年になります。
3年間でかなり、「今の自分」と「Being」を
受け入れたのだろうと思います。


それなのに自分は
そのための重圧や
突然ひとりにふりかかった責任などに
追い詰められて
夫の苦しみにいつも寄り添うことが
きちんとできていないと思う


もし
このことが反対だったとしたら
どうなのだろうか


自分がある日突然病気になり
気が付いたら半身が麻痺
自由のきかない生活
多くのものを奪われてしまった中で生きる
いつもいつも再発の恐怖と隣り合わせ
将来が見えなくて、あとどのくらいの命なのか
わからない日々


そんな自分に夫はどれだけ
寄り添ってくれるだろうか
どれだけ自分を手伝ってくれるだろうか
どれだけ願いをきいてくれるだろうか


職場で毎日寝たきりの奥さまのところに
お見舞いにみえるご主人を見ながら
ふと思ってしまいました。


明日の自分のことは
誰にもわかりません。
神さまのご計画は、誰にも読めません。


そろそろ本格的にエンディングノートを
書きとめて行かなければならないと
考え始めています。


カトリックの共同墓地の中で
散骨してもらおうかと考えています。
閉所恐怖症なので、真っ暗なお墓の中に
納められることに抵抗を感じてしまいます。


近いうちに遺影写真を作りに行こうかとも
考えています。
(これは何年かごとに更新しなければ
うそになってしまいますね)


神さまのもとに旅立つ日が
明日なのか
10年後なのかあるいは20年後、もっと先なのか
わかりません。


私は信者なのでもうクリスチャンネームはあるので
仏教でいう法名などの心配はいりません。
葬儀もふつうに地味にミサという秘跡を受けられる
お花はいりません。
お花にかかるお金は、こどもたちの未来に
捧げたいので。
そんなことを書き留めておかなければ・・・


桜吹雪の中で
ふと、そんなことを考えている私です。