祈りのうちに

夫の突然の脳腫瘍、物語を書きかえながら、すべてを受け入れる
日々をつづりたいと思います

1年

父の記録


今日、9月17日は

父とお別れした日

1年が過ぎました。


この3連休で広島のお墓、お寺へ行き

一周忌の法要をしてきました。

それともう一つ

父が10歳(5年生)の時に学童疎開をした

山寺を初めて訪ねて来ました。

広島中心地から1時間半ほどバスで行く

山奥のお寺です。

ここに、5年生が学童疎開して

皆が同じ思いで家族と離れて

原爆投下、そして終戦までの数ヶ月を

過ごした場所です。


この山寺は400年ほどもたつ由緒あるお寺でした。

この中を子どもたちは

時にはいたずらを

時にはうやうやしく毎日のお経を唱え

作業をしたり、分校へ通ったり

していたであろう姿が見えるようでした。


疎開に出発の朝は皆が遠足気分でしたが

夜になると1人また1人と泣いたそうです。


父は、子どもたちの中でも

身体が大きく、もう1人のガキ大将と2人で

ある晩、50キロほどの山の道のりを歩いて

脱走したそうです。

当時の子どもは逞しかったのでしょう。

結局は、再びお寺へ帰り

そのために原爆を免れました。


原爆投下の時は

皆で朝ごはんの時間でしたが

突然光り、地響きが鳴り

子どもたちは何事かと縁側に出ると

空に巨大なキノコ雲が現れたそうです。


子どもたちは、広島の中国電力に

爆弾が落ちたのかと想像したそうで

しばらくして、空からキラキラと何かが

たくさん降って来たので

拾い上げてみるとそれらは

焼け焦げた伝票類だったそうです。


皆、広島の家族を思い

不穏になり、泣いたりしました。

翌日、お寺の中学生の息子さんが

大ケガをして必死で戻って来た姿を見て

ただごとではない胸騒ぎになり

先生が自転車を飛ばして広島の町を

見に行き、お寺に戻り、皆を集め

覚悟して聞くように言ってから

広島の惨状についてどれだけ子どもたちに話したのか

わかりませんが、家族には会えないかも

しれないとは言ったそうです。

もちろん、皆、大泣き大パニック

子どもたちには第一の試練でした。


やがて、お寺で玉音放送を聞いた日

誰もその内容は理解できなかったそうです。


お寺に1人また1人と家族がお迎えに来て

毎日自分の家族を待ちながら

ここまでもし進駐軍が来たら

お互いさしあって死のうと相談し

竹を削って槍にしたそうです。


広島で建物疎開にならないよう家を

守っていた父の母親は

被曝して大変なことになりました。


容態の悪い母親のもとへ

疎開の子どもたちとのさよならもそこそこに

お寺を後にして、重篤な状態で

郷に戻っていた母親のもとに帰り

お寺で過ごした仲間とも大人になるまで

会うこともなく第二の試練時代を

過ごすのでした。


その後、戦争がそれぞれの子どもたちに

第二の試練をあたえましたが

こんな風に過ごした子どもたちだったから

80歳を超えても

その絆は家族のようで

毎年、集まる機会を持ち

それ以外にも、ことあるとに集まっているそうです。


このお寺の住職さんは

もう世代も変わっていますが

広島の戦争の時のことを

それは詳しく記録されています。


話は戻り、昨日は父の法要をし

しみじみと、疎開のお寺訪問のことなどを

伝えて、この1年のことを振り返ると

まだ父が帰って来てくれるような気がして

涙が滲むのでした。


住職さんの正信偈を聴きながら

ふと側にかけられていた筆文字を見ると

その詩は再度涙をさそいました。


み佛に抱かれて


1. み佛に抱かれて

君逝きぬ 西の岸

懐かしき俤(おもかげ)も

消えはてし悲しさよ


2.み佛に抱かれて

君逝きぬ慈悲の国

み救いを身にかけて

示します畏(かしこ)さよ


3.み佛に抱かれて

君逝きぬ花の里

つきせざる楽しみに

笑みたもう嬉しさよ


4.み佛に抱かれて

君逝きぬ珠の家

美しきみ佛と

成りましし尊さよ



今日も祈りのうちに