祈りのうちに

夫の突然の脳腫瘍、物語を書きかえながら、すべてを受け入れる
日々をつづりたいと思います

2018年1月17日・・・解放記念日

夫はもともとIT関連の会社を経営していました。
30代前半で起業し
数人のメンバーで仕事をしていました。
初めはもと自分がいた職場をやはり退職した人に
声をかけたりしながら
気の合う人々が集まり
バブルの頃は大きなプロジェクトもたずさわりました。
でも、長年の不景気で仕事がだんだんとなくなり
本当に全然仕事がない期間もあって
一緒に仕事していたメンバーには
(各自、独立したフリーばかりだったので)
自分の場所にもどってもらったりして
最終的に1人はいつも事務所にきていた人がいました。


夫はその人の給与や家賃を長い間助けていましたが
その間にかなりの負債を負ってしまいました。


病気になる直前の頃は
ITの仕事は見切りをつけて
私がすすめた自分の職場系列の介護の方で
働くようになりました。
そのうちにそこで正職員となり
数年働いて定年を迎えて
わずかながらも退職金も出たおかけで
長男の大学進学の資金にできたし
あらためて、自分で会社を経営している不安定さと
他に所属して福利厚生や保険年金の保証があることの
安心を感じていました。


病気をしても
1年半の傷病手当をうけることができ
年金も厚生年金で受けることができました。
夫は病気をして会社を復興することは
ほとんど不可能とわかっていても
ほんの少しの未練があったようですが
実際にもうITの仕事をすることはできないし
会社は休眠状態になったままです。


それでも働けなくなって
住宅ローンや会社経営時代の負債は
消えることはありませんでした。
住宅ローンに関しては、団体信用保険が
使えないかを色々と調べましたが
「脳腫瘍」という病気では使えませんでした。


残念な気持ちはありましたが
昨年持ち家を売却することを決意し
持ち家の土地の持ち主である父にも承諾を得て
約半年かかって売却するにいたりました。
それが昨年8月のことでした。


その時に売却し、住宅ローンを完済し
手元に残った少しのお金をどうするか
すぐには決心できなかったけれど
やはり、負債の方にまわして
すっきりと十字架を下すことに決意し
昨日、完済し終えました。


長い間、背負っていた
「負債」という十字架を下すことができました。
夫は負債をもっていることで
後ろ指をさされていたこともあります。
私に隠していたこともあり
何度も恨んだこともあります。
でも、病気が発覚した時に
自分でどうにもできなくなり
私のところにふりかかってきました。
娘を不幸にしたと言うことで
私の両親は夫を良く思っていないので
高齢ということもありますが
お見舞いに来ることもありません。


ひとりで司法書士事務所をたずね
返済について背負ってきました。
でも、昨日終わったのです。
実感はありません。
いつもと同じ1日でした。


負債を全て完済したことは
夫にどう説明するかはまだ考えていません。
夫は発病以来、お金の管理もできないので
全て私がやってきたので
説明してわかってくれるのかも微妙です。
理解できるかわからないのに
この一大事を話す気持ちにもなかなかなれません。
自分の胸にしまっておこうかとも思っています。


ただ、決心することを促してくれたのは
父でした。
長い間、わたしを支えてきてくれました。
私は今のまま、分割での返済でもいいと話したけれど
「もう終わりにしなさい、長いトンネルだった」と
父は私に言いました。
父は自分の余命を考えているのか
将来の財産分与のことも
姉妹で不公平のないように考えているようでした。


父には厳しいことも言われてきましたが
言葉もなかった


でも
私はこれで今日から
地道に重い荷物もなく
暮らしていくことができるのだと思うと
本当に気持ちが軽くなりました。


妹は神様が
夫の病気の代償に、夫の隠れた負債を明るみに出し
この日を迎えられるようにしてくれたのだと
言ってくれました。


大切な家や、その他のものも
夫の自由な身さえも
色々と失ったものは多いのですが
この解放記念日を迎えられて
今は静寂な気持ちで過ごしています。


あまりに私的な内容ですが
記録のために記事にしました。


今日も祈りのうちに

番外編 膵臓がんと肺炎の関係

父の話です


肺炎で昨年の12月12日に緊急入院していた父が
今日の午後退院することになりました。


入院当初は、熱もなかなか下がらず
食思もあがらず
薬が効かないようで危険な状態もありましたが
なんとかその状態を脱し
肺も落ち着いてきました。
プレドニンを大量投与していたので
徐々に量を減らして
ようやく最初の半量以下まできたので
退院できるようになりました。


昨日のICでは
薬剤性の肺臓炎ということで
やはりすい臓がん治療で行った化学療法の影響を
否定できないと言うことでした。


おとといの夜、面会の帰りに
たまたま廊下で会った消化器科の主治医の先生は
退院後に抗がん剤治療はちょっと勧められないと
残念そうに話していました。
父が何というかはわからないけれど・・・と
つけたしながら。


肺炎でかなり危険な状態にまでなり
それでもリスクをわかりながらの
抗がん剤治療は、勧めたくないとのお話でした。
私たちも、天秤にかけて
再び、肺炎を起こし
酸素になり、寝たきりになりみたいな父を
想像できないので、膵臓がんの治療を
見送るしかないと思います。


今は膵臓がん自体は転移もなく
浸潤もなく、とりあえず単体での存在なので
日常生活に大きな影響を及ぼしていません。


自立と自宅での生活を大きく望んでいる父なので
QOLを考えても
治療なしで膵臓がんとつきあっていくしかない
この答えしか今は出てきません。


この1カ月余りの入院のあいだに
体重が一時は10キロ以上落ちてしまいました。
今は3キロくらいの上昇はあるものの
180センチを超える身長の大柄な父は
やせ細って、足元もおぼつかない足取りです。
本人は家に戻ればもっとしっかりした生活ができるし
気持ちも変わるのだ、という前向きな気持ちを持っていて
1日も早く退院することしか考えていないようです。


退院後の生活を思うと
なんの準備もできていないままで不安もありますが
ドクターから「退院」という言葉がでるやいなや
翌日には帰ると言う父を
とめることはできませんでした。


とりあえず、昨日は介護認定の再調査の日だったので
家族としての気持ちも調査員にできる限り報告して
今後の体制を整えていく所存です。


1月17日
父は念願の自宅へ帰る
病院から自宅へ帰ることができたことを
感謝しなければならないと思いました。


今日も祈りのうちに

1月の治療と検査を終えて

アバスチン7回目とMRIのための

入院を終えて、13日退院し

施設に戻りました。


退院の日にICがあり

毎回MRIの結果をドキドキしながら

聞くのですが

今回も特に変化なしということで

先生からこの言葉が出ると

胸をなでおろすような気持ちになります。


アバスチンによる副作用の

高血圧や蛋白尿も今のところなくきているので

体調が良いところでアバスチンの間隔を

1カ月から2カ月にすることになりました。

先生の計画では2カ月ごとを3回、半年続けて

一度終了にして経過観察をするということでした。


終了する日が来るのか!

と、困惑混ざりに質問してみると

先生から面白いたとえで説明されました。


ボクシングで右からばかりのパンチが打たれれば

当然、右をガードするようになる

これは相手に予測させてしまい、次をよまれてしまう

同じことを続ければそうなるが

別な攻撃があれば、そこに油断があり

右パンチと思いきや、キックが入れば

そこにダメージができる

というような方法です、と。


つまりは長きに渡り

同じアバスチンの治療方法では

副作用も出て来る上に、病気も賢くなって来るという

ことのようでした


脳腫瘍は

ずっと残り続ける病気なのです。

夫の頭の中に

息をひそめているということなのです。


他に質問はありますかという問いかけに

夫は頻尿について聞いていました。

最近、頻尿なのだそうです。

特に副作用ではないと思われるから

次回に泌尿器科の受診をオーダーしてくださいました。

年齢的に前立腺肥大かもと言われました。


それともうひとつは

この頃、忘れていたことが思い出せることが

あるというのです。

夫は、腫瘍を摘出したことで脳の一部が

損傷、損失したため

記憶も消されたと思っていたのに、と先生に話すと

記憶は残っていても、それを引き出す力が

よわくなっていたのが

だんだんと強くなってきたのでしょうと

言われました。


手術し、右麻痺にまでなり

失ったものに意気消沈していたけれど

1年前の夫とは違うということなのだ

今は前を向いて

左手でかなり文字を書くことができるようになり

自分の能力を上手に使っている

このことを考えると

脳腫瘍の治療にメンタルケアの大切さが

よくわかります。


どんな病気でもそうかもしれないけれど。


ちなみに脳外科の先生は

両手が使えないと手術させてもらえないのだそうです。

まずは利き手以外の手でお箸をもつ練習を

するのだとか。


脳外科のドクターのハイレベルさに

またしても頭が下がりました。


主治医の先生のICはいつも

励ましが感じられます。


今日も祈りのうちに